好きなことこそしっかりと。

東京在住の18歳男子。好きなことをつらつら書いています。

茶道に真正面から体当りしていく。

茶道に真面目に取り組んでみようと頻繁な稽古を始めて2ヶ月弱。

 

それ以前の"お香の匂いと和菓子とおばさん"みたいな今から思えば酷すぎるイメージも今では彼方へ飛んでいきました。

浪人が決まり、騒がしかった僕の心が求めたのが茶道の空間でした。落ち着く茶室で厳密な作法と向き合う。もともと無心になることは出来るタイプですが、茶室が持つ"小さな宇宙感"によってなのか、フッと精神的に軽くなる瞬間が好き。

 

とは言え、普通の薄茶/濃茶に始まり無限に思われる数々のお点前。

正直、許状とかを通じて全体像を知ることなく稽古を始めて良かった。。。

長い道のりを意識していたら一歩を踏み出そうと思わなかったかも知れません。

まだ四ヶ伝を終えた段階なので台子等は意識せずに今思うのは、結局は数ある手前も、薄茶/濃茶の変形、つまり応用なのだという心構えと、可能な限りそれぞれの動作の理由を突き詰めればある程度すんなりと頭に入ってくるということ。

でも、最初は道具の名前一つとっても頭に入ってこなかったりします。

 

そこで考えたのが、道具を片端から作るという茶道への向き合い方。

 

今まで茶杓、茶碗、蓋置、柄杓、棚、茶入、建水、茶筅を作りました。

茶筅は試作は完成したものの一度挫折しかけ、今やっと本式の完成が見えてきました。ちなみに水指、香合、灰器、茶箱あたりが次の狙い目です(笑))

 

茶杓や茶碗はネット上や書籍にも作り方がたくさん出ているのでメジャーだと思いますが、残りの道具についてはほぼ情報ゼロでした。

そんな中、制作するときに個人的に自らに課したルールは、

「美しく新しいものを目指すが、決して用の美を忘れてはならない」

というもの。

 

僕は常々思うのです。

現代陶芸家の作品は美しい。

炎芸術の特集を見たりしても、そのクールな形や色に痺れることはよくあります。

しかし、同時に「これは…点てにくいだろうな」と思ってしまう。

運が良いことにこの春、樂茶碗展と茶道具展が開かれています。

特に当代吉左衛門氏のガラスケースに入ったカラフルな茶碗群は、目の前にするとそのオーラに圧倒されます。

が、彫刻を学ばれたというご経歴からも察せられるに、茶道を始めて間もないとは言え一介の茶人ではある僕の目にはオブジェに写ってしまう。

茶碗の中でも樂茶碗が好きで、かつ当代のようなカクカクのシルエットも好きなのに、どうしても茶巾大変そうだなぁ、とか思ってしまうのです。

そこのところは楽さんも重々承知でしょうから、もしかしたら茶巾も問題なく通るのかもしれない。

そんなことをぼんやり考えていたら、「お点前のしやすさ」が意外と自分の中では大きな事なんだなぁと実感しました。

 

でも、基本的に普通の茶道具、たとえば普通の形の茶杓(櫂先や節の景色、竹の肌には違いはありますが)は、既に使うのに支障はないように出来ています。

それなら普通の茶道具を再現すれば良い…はずなのですが。

残念ながら、それをつまらんと思ってしまった僕は再現の道には進みませんでした。

もともとモノ作りが好きなので、やるなら思い切ったものを作ろう。

 

そこで青い頭で考えた結論が、形は自由めに、むしろ現代陶芸家の方々が魅せるような美しい造形を目指すものの、決して作法を妨げず、可能な限り現状の道具より使いやすい機能を付加する、というものでした。

まぁ、尊大に聞こえますよね。

僕もそう思います。

 

このルールは果たして有効なのか。

それを試すためにも、最初にひとまず作ったのが竹製の、手にフィットし、かつ茶が掬いやすい、捻れた茶杓でした。

 

(次回…に続く)